江戸朱引図です。
人口集中の加速化に伴い、江戸の市域は拡大を続けましたが、
19世紀初頭には行政の範囲が不明確になってきました。
要はどっから江戸でどこまでが江戸かってことが
シッチャカメッチャカになって、政(まつりごと)に支障が
出てきたワケです。
で、文政元年(1818)8月に幕府目付の
牧野助左衛門(まきのすけざえもん)が江戸の範囲を評議にかけ、
ときの
老中、阿倍正精(あべまさきよ1774-1826)に
決裁を受けますた。
その結果、左図にある朱引線(赤線)内を江戸御府内とするという
幕府公式見解の通達を出しました。
「ええ〜い!どうじゃ!こっからここまでが江戸じゃい!」
てなもんです(笑)……って、ちとアバウトかも〜

東は亀戸(江東区)・木下、墨田村(墨田区)、
北は千住(荒川区)・瀧之川村(北区)・板橋(板橋区)、
西は代々木村(渋谷区)・角筈村、戸塚村(新宿区)、
南が大崎村、南品川宿(品川区)となりました。
しかし、現在のように明確な線ではないので
「ここいらあたりじゃ!」でヨシとしました。

ちなみに黒引内は、町奉行の支配内を示します。
南北町奉行の与力・同心による警察権のあったとこですね。
「御用だ!御用だ!おとなしく縛につけ〜!」が
出来るとこです。
黒引と朱引の間はグレーゾーンみたいなもんで
町奉行の与力・同心の他に関東取締出役、
俗にいう八州廻りも見回っていたようです。



老中(ろうじゅう)
老中とは、江戸幕府に置かれた、国政全体を総括する役職で、
常置の最高職です。老中の上に幕府最高職である「大老」が
置かれる場合もありましたが、大老は、非常のときのみに
置かれました。
定員は、通常4〜5人で、原則として、2万5千石以上の
「譜代大名」が務め、月番制で、大目付・町奉行・遠国奉行らの
指揮監督や、朝廷、公家、門跡および大名、外国に関する事柄、
大規模な土木工事や知行割りなどの政務をこなしました。
総理大臣みたいなもんです。




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